土曜日, 3月 10

いま集合的無意識を、

アニメディアニュータイプ立ち読みの代償として、O書店にて購入。

関係ないけど、隣に陳列されていたThe Indifference Engineのオビを読んで、円城塔屍者の帝国の執筆を引き継いだことを知った(←遅えよ!)。もちろん喜ばしい事ではあるものの、どこまで伊藤計劃作品っぽく書けるかが問題だな…まぁ、あまり円城テイストを表に出さないよう自重するとは思うけど。

SFマガジンしか読んでいない身としては、アンブロークンアローの次がいきなり表題作という順番だったのだが、その間に集合的無意識を題材とした作品を書いてたのね…それに震災と伊藤計劃の要素を加えて改めて語り直したのが、表題作というわけか。
集合的無意識に対する認識という面では興味深かったものの、人間とコンピュータとの関係について「パーソナルなコンピュータとの関係は○、しかしそれがネットになると×」という二元論は、いささか乱暴じゃないかと…対人コミュニケーション能力に難を抱える立場から言わせてもらえれば(苦笑)、双方には大した差異があるようには思えないんだよね。
ただ後者については、その性質ゆえに(←単にユーザーの数が多いため、また書き込みがデータとして残ったまま蓄積されていくことで)、どうしても量的に目立つというだけの話という気がする。
そして、それはインターネットが登場するより以前、社会集団というものが成立した時点からついて回った問題であって…そもそも人間の情報収集・分析・判断力には限界があるわけで、それは社会集団レベルでも変わらない(←むしろ頭数が多い分だけ、手に負えないことも)。そういった集団レベルでの勘違い、あるいは狭い視野にとらわれたり、一時の感情に流されたりした結果としての、愚行の数々については歴史に記されている通りだし。
だからネットの普及を直接的な原因として、社会のありようがネット以前の時代よりも悪化するとは考えられない…他の多くのテクノロジーや文化媒体が、それ自体では害悪では無いように。

ただしハーモニーに関して言及されている部分については、俺がハーモニーを未読である以上、どうしても解釈が曖昧になってしまう…というわけで、どうやら覚悟を決めて(笑)、ハーモニーを読むときが来たようだ。
これまで手を付けずにいたのは、やはり伊藤計劃最後の作品ということで大事に取っておきたかった面もあるものの、むしろ単にキッカケが無かったとか、あらすじや紹介記事で読んだ設定に食指が動かなかったとか、鬱な内容なので(バチガルピ作品と同じく)念入りにコンディションを整えてからでなければ読めない…といった、あまりポジティブじゃない理由のほうが大きかったりするんだけどさ(苦笑)。
だが上記のように円城塔屍者の帝国を手がけることになった以上、もはやアンタッチャブルな存在として殿堂に奉っておく必要性も薄くなったというわけだ。

0 件のコメント: