土曜日, 12月 11

藤子F全集・ドラえもん 第11巻

ニュータイプ立ち読みの代償として、D書店で購入。

しょうげき波ピストル
この巻に収録されている中では唯一、のび太のガンマン設定に忠実なエピソード。これ以外だと、ゲラメソプンピストルでは緊張のせいで狙った相手に命中しないし、ツモリガンでは早撃ちでドラに負けるという体たらく…という風に、話の都合でコロコロ変わるのはいかがなものか。まぁ、のび太の宇宙開拓史よりも前に描かれたエピソードだから仕方ないし、“友情に厚いジャイアン”と同じで、映画版は別人なのだと考えるべきなのかも知れんけど。

しあわせな人魚姫
ドラが単体で活躍する珍しいエピソード。滅多に描かれないので忘れがちになるが、ドラ自身のキャラクター性(←容赦のない物言いとか)もかなり魅力的なんだよな。

新種図鑑で有名になろう
平成教育委員会によると、昆虫は毎年何千という新種が発見されているそうで(笑)。よほどの発見でないと、新聞には取り上げてもらえそうも無いぞ。

本物電子ゲーム
アイデア、描かれた状況のシュールさ(←初期のゲームのシチュエーションって、こういうツッコミどころ満載のものが多々あったな。もちろんハードの制約上、仕方ないんだけどさ)、見事なオチなど、この巻だけでなく全てのエピソードの中でもトップクラスの秀作だと個人的には思う。

SLえんとつ
人間機関車
のリメイク。この巻ではタッチ手ぶくろもリメイクされていたし、いよいよネタ切れが本格化してきた感じ。
特別資料室によると、読者からの道具アイディアコンクール(←道路光線が読者のアイデアだとは知らなかった)もこの時期から始まったようだし。

かぐやロボット
カッコータマゴ、ジャイアンよい子だねんねしな
と、この巻では“未来デパートから、注文していない品物が間違って届く”というパターンがやたら多い…まぁこの点に関しては、本来ならドラが所有していないであろうタイプの道具を登場させる方便として都合がいい面もあるので、新たな導入部テンプレとして認められなくも無いんだけどさ。
しかし“無責任に新たな生命を育てようとして行き詰まる”というあらすじまでがジャイアンよい子だ~と類似しており、しかもあちらがクローンや遺伝情報などSF・科学関連の要素を含む比較的高度な内容であるのに対し、後から描かれたはずのこちらは昔話そのままと、むしろ退化してるのはダメだろう。
なのに掲載誌は、前者が小学三年生で後者が六年生というのもいただけない。

超リアル・ジオラマ作戦
プラモが大脱走
ではガンダムのパチモンそのまんまだったのに対し、こちらで登場したロボットは、既存の作品に抵触しないオリジナルのデザインとなっている。
やはりサンライズからクレームあったのだろうか…オガンダムもバカラスに変わっちゃったしなぁ。

同梱チラシは“スネ夫の時代到来!!”と銘打って特集。この時代に多様化した子供向けホビー(プラモやゲームなど)に関連づけた話では、スネ夫の活躍する余地が増えるのは確かだな。
しかしスネ夫がモテる(←といっても1回、勝利をよぶチアガール手ぶくろで描写されただけだが)要因を“趣味に精通した面白い人”とする見解には賛同しかねる。
のび太が言うように、普段からアクセサリーなどをプレゼントする財力と、口のうまさこそが最大の武器だと考えるべきだろう。

特別資料室では、なぜか劇がムチャクチャにの加筆修正部分を紹介。しずかちゃんが人魚姫の役を嫌がる理由について、初期バージョンが「ヌードになるのがイヤ(←絵では上半身が裸であることを強調)」だったのに対し、修正後は「下半身が魚から人間に変身するのがイヤ」に変更された…この手の修正は、より無難な方向へ行われるのがお約束だと思ったが、むしろ過激な方へシフトしてるぞ(笑)。

巻末解説は吉崎観音ということで、久しぶりに読みごたえのある内容だった…なにしろ、ドラえもんの正統な後継者だからなぁ。
初めて単行本を手にしたとき「どのページにも色の付いてない本が怖かった」など、自分自身の(子供心ならではの)反応をしっかり覚えているあたりは、さすがと言えよう。
いっぽうで、純粋に読者として作品を楽しむのではなく、職業としてのマンガ家を意識し、「作者と読者と作品の関係性を観察することに興味を持った」というあたりが、妙に大人びているというか、やはりマンガ家になる素質の持ち主はひと味違うというか。
パロディを売りにしている作家らしく、パロディに対する姿勢についても語っており、ネタを引用すること自体よりも、ネタに対して抱いた気持ちを再現することを重視しているとの事…パロディしか能のない者にとっては、耳の痛い話だ(苦笑)。
しかし絵に関しての話は、さすがに擁護が過剰じゃないかという気がするぞ。藤子SF短編よりも前から、手塚治虫があの絵柄でSFマンガを描いていたわけだし。“オールマイティの手塚”に対し“児童向けマンガの藤子”という偏ったイメージさえ取り除いてしまえば、ああいったシンプルな絵柄のSFマンガが存在し得ることを、必死に主張する必要も無かろう。
ふたりで赤ちゃん作らない?」は、リアルタイム読者には絶対に分からないネタだよな。果たして「自分だけ分かればいいや」というつもりで入れたのか、それとも読者が大人になって読み返すことを想定していたのか?
アニメ版の存在によって、作品としてのドラえもんを認知する年齢が下がっている一方、ようやくマンガとしてのドラえもんの面白さを理解できる年頃には、作品を卒業してしまっている…というジレンマについての指摘は、鋭いものがある。同じ児童向けマンガに携わる者であるがゆえの悩みだろうか。
その対策の一つとして始められたのが大長編ドラえもんなのだとしても、結局それもまた“映画版の原作”としての立ち位置が固まるに連れて、却って“年齢高めの読者に向けて描かれた大長編”と“幼児にも分かるようスポイルされてしまった(←敢えてこう書く)映画”との乖離が拡大する結果を生んでしまったというのは、皮肉と言うしかない。
ターゲティングの方向性に苦慮するのは(とくに長期作品においては)、永遠について回る問題なんだろうな。この問題を追究した上で吉崎の出した答えが、ガンプラというファクターを取り入れることで、幅広い層をターゲットとすることに成功したケロロなのだろうか。

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